ブログを14年続けてわかったこと:あらゆるリンクは消える

まぁもう表題で終わってるんですけど、今月で当サイトは14周年を迎えるのですが、振り返ってわかったことは、あらゆるリンクは消えるということです。もう本当に全部消えます。行きつけのサイトはもちろん、当時絶対に潰れないと思われた大手サービスも消えます。全部消えます。今あるリンクは全部全部全部消えます。

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消える消えるよサイトは消える

このサイトも、多くのリンクを貼ってきましたが、消えているサイトが多いことにふと気づいて驚きます。たとえば本サイトの最初の記事は、Ubuntu Serverを構築するぞ!という2012年…そう、まだ私が二十代半ばだった頃の記事…なのですが、これは実のところ当時あったUbuntu Magazineを自分なりになぞった(そして無駄にアレンジして爆死した)ものです。

本サイト最古の記事です。当時、雑誌以上のことは書いてないよなぁ…(^_^;)という引け目があったことをなんとなく覚えています。実際には、記事を読むと情報というよりも試行錯誤のほうがコンテンツになっているので、結果的には今も好事家なら生暖かく面白く読める記事に思います。自分で言うのもなんですが。ただ純粋に機能として見たとき情報量と言いづらく、それがコンテンツであるとは当時の自分にとって確信が持てなかったのでしょう。

単に情報としては、Ubuntu Magazineで完成されていました。なので、ネットでも公開されているそれを読めばいいじゃないか…という気持ちはありつつ記事を公開したような思い出です。記事からもリンクが貼られています。それは金のない若者だった僕にとって、とても有り難いものでした。

しかし、その後Ubuntu Magazineは消えました。

https://ubuntu.asciimw.jp

なんで消えたのかは知りません。KADOKAWA CORPORATIONにとっていくつかのPDFを置くだけのサーバ代がたいへんだとは到底思えませんし。となると大人の事情があったのか、どうなのか。

わかりませんが、とにかく消えました。そして私のサイトだけが残った。

まぁこんな感じで、上記の記事は連載記事としていくつか書くのですが(続けて連載記事を書く体力はもはやありません)、参考とした個人サイトやらなんやらも、今見ると大部分消えていたりするんですよね。当時「これは結局ただ他所様の情報を集めただけなのではないか…?」という気持ちもあったのですが、結果的にそれら大元が消えたことで、私のサイトの中にある記述だけが残った形です。

個人サイトの場合は大人の事情というより、単に個人的な事情でしょうね。個人サイト、もうほんと報われないですから。世間の流れも、ライフステージも変わりますしね。ちなみにこのサイトも、実はいくつかの記事が非公開になっています。その中には非公開にする直前までそこそこアクセスのあった記事もあります。個人的な事情です。しゃーないのです。時代も私も変わっているので。

私がリンクで終わらせずにスクショを貼ったりするのは、こういう原体験のために、あらゆるネット上の情報について、きっと消えるんだろうなぁという気持ちがあるからだったりします。インターネットは一期一会。その傾向は昔よりも強まっています。お気に入りのサイトも、胴元もろとも消えることがあります。ジオシティーズは何処に消えた…。

あの日見たゲーム画面が本当にそうだったのか僕たちは全部忘れた

この消える現象はWebサイトにとどまりません。むしろマシなほうかも。消える媒体の最たるものは、オンラインゲームやソーシャルゲームをはじめとするネット主体のゲームじゃないですかね。40年前のファミコンは今でもプレイできる方法があるのに、5年前に流行っていたあのソーシャルゲームはもうプレイできません。もはやあったのかどうかも疑わしい気分だ。

僕の青春はSFCことスーパーファミコンであり、FFことファイナルファンタジーの4から6くらいでしたが、まぁ前後の1-3、7-10,12くらいまではやりましたが、あの時代で良かったと時々思います。今でも媒体は残っており、オリジナルをプレイすることは可能です。そして当時の記憶は皆が共通であり、確かなものです。媒体は修正されません。

しかしもし今のオンラインゲームであったならば…日々のアップデートは僕の思い出を塗り替えた可能性があります。それならまだマシで、アクセスすらできない状態になったとき、いったいそれは本当に存在したのかも、疑わしいものになる。ストアにあるタイトル画面の残骸だけが、かつて存在した証になるのだろうか。そのストアすらも、いつかは消えるのだろう。

このように考えたとき、恐らく2000年代後半くらいから現在、そしてもうしばらく後まで、後世においてデジタル暗黒時代として記録されるのではないかな、と思います。あらゆることがネットに集約されはじめたにも関わらず、あらゆることがネットから消えている。結果、いったい当時何があったのか、誰にもわからない。かろうじて当時の人の話にこぎつけても、人によって言うことがバラバラ。そりゃそうですね、なにしろバージョンが違いますから。

そして誰もいなくなった

僕は現状を危惧する考えです。今起きていることを有り体に言えば、文化の死、あるいは断絶と言えるかもしれません。この原因について考えたときに、いくつかのキーワードが浮かんできます。列挙するなら、とりあえず以下の3つがあります。

  • 資本主義
  • 中央集権、あるいはプラットフォーム
  • クラウド

資本主義というのは、たとえば資本の論理においては文化の死も肯定されるということです。代表的なのがどこぞのネズミのために著作権がどんどんと長引いていくあの現象です。あれは多くの古典を人々から遠ざけています。身近においても、終わったソーシャルゲームを蘇らせるような行為は、これは大罪とされます。企業はいつか使うかもしれないIPの独占を手放したくはありません。

根本的に、資本の論理と文化とは水と油です。金で愛は買えないといえば誰もが頷くと思いますが、まぁもしかしたら頷かない人はいるかもしれないですがそういう可哀想な人は置いといて、文化とは金より愛に近いものですから、資本の論理を優先すれば、どうしても文化の在り方は難しくなります。

ですが資本主義だけならば、あまり大きな問題にならなかったかもしれないと思います。が、デジタルにおける中央集権化およびクラウド化と資本主義のシナジーによって、話は深刻になっていきます。

寄らば大樹の陰といいますか、多くの人が少数のプラットフォームに集まった結果、そのいっときの利便性と引き換えに、一つのプラットフォームの決定によりあまりにも多くの巻き添えが発生するようになりました。そしてこの決定に資本主義が強く絡みます。資本の論理において生存の理由がないものは、生きられない、少なくとも生きづらいのです。

プラットフォームは資本の論理に根づきます。そしてクラウドはすべてをプラットフォームの側に寄せます。資本の論理は、それに反するものを、たとえ文化的価値があっても容赦なく滅します。

そして誰もいなくなった。

まぁ実際にはまだ、ビッグテックを代表とするいくつかのプラットフォームが残っており、皆そこに集まっているわけですけれども、栄枯盛衰、諸行無常を思えば、何がどうなってもおかしくありませんね。Xなんかも例外じゃありませんよ。ってかあれこそ、いつ消えても(あるいは閲覧できなくなっても)おかしくないんだわ。

あなたはデータを信じますか?

まぁそんなわけで、せめてもの抵抗というか、僕は細々とこうして場末で独り世情のあれやこれやを書き散らしている、というのは大げさで単に書くのが好きだから書いているのですが、しかしこういう個人が必要なんじゃないのか、という気持ちもあったりなんだりするんです。最後に残るのは結局、こういう資本の論理と完全に切り離された、存在理由が不合理な私文なんじゃないでしょうか。

こういう気持ちもあって、今は個人でHTMLを含む様々なデジタル媒体を含むメディアを、アーカイブ・閲覧・編集・管理できるセルフホストのアプリケーションをシコシコつくっていたりします。このサイトでたまにD-Shelf(仮)と言っているのがそれです。しかし自分で使う分にはまだしも(基本的にはわたしの普段遣いのために作っているものです)、人様に見せられる状態には、AIの力を借りても中々難しいもので、公開はだいぶ先になりそうですが。

ま、難しいことを言わずとも、とりあえずは個々人がこうやってその時々を記録・保存していくだけでも十分じゃないでしょうか。それも立派なアーカイブです。

そんなことしたところで、所詮個人のアーカイブに信用などないじゃないか、と思われるかもしれません。しかし、信用ってなんでしょうか。政府機関のことでしょうか。大学のことでしょうか。どっかのなんかエラいって言われている人のお墨付きでしょうか。あるいはブロックチェーンのことなんでしょうか。それともまさかまさか、バズツイのことなんでしょうか。

全部、違うと思います。それらは単に権威ないし技術、あるいはトレンドなのであって、それ以上でもそれ以下でもありません。

では信用とはなにか。信用とはとどのつまり、自分の心の内側から湧き上がる内発的なものであると私は思います。これは極めて主観的です。しかし本質がそうであると思います。虚心坦懐になって、信じるに足ると思われたのならば、それが信用です。それはとてもしんどいことです。だってこの考えだと、信用とはつまり、自分の責任にもとづくものだということだからです。

だからみんな、客観に逃げました。主観のしんどさに耐えきれなくて、客観に逃げました。信用の根本をすっ飛ばして外形で判断できる体裁に頼ったところに、現代の歪みがあります。結果、世間的に信用とされるものを、私たちは本当のところ、何にも信じていないのではないでしょうか。そりゃそうという話で、別に客観は客観で便利なので、適当に使えばいいんですけれど、事実は単に事実なのであって、信じるものではないでしょう。

こういう考えなので、私は外形的な証明を作る気はまったくありません。信用とは生身の人と人が繋ぐトラストチェーンであると考えます。信用してくれなんていいません。信用するのもしないのも人の勝手だと思います。

ただこの信用というのは、客観的な判断と異なりけっこう気合いのいるものです。気合いというのは、これは有限です。それは精神であり、時間です。その有限なリソースを、我々死に向かっている生物がコミットするのであれば、そこにはそれなりの信用があるでしょう。そういう個々の信用の連なりは、社会的にも信用といっていいものなんではないでしょうか。その信用の軌跡が文化なのだと、私は思います。

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