氷河期世代と雇い止めと自己責任論について今更考える

最近Xの邪悪なアルゴリズムにのまれている自覚あるので、「氷河期世代」などいくつかの燃えるワードをミュートキーワードに入れました。ただそういうわかりやすいキーワードのないものはすり抜けるのですが、まぁ全部が全部別に邪悪でもないので、興味深いものがあればそれについては考えます。

で、今回流れてきて目を引いたのは、みんな大嫌い「雇い止め問題」です。そういえば雇い止めって、ちゃんと考えたことありませんでした。なので、この問題は結局なんなのだろうと、ぼちぼち考えておりました。なんか引っかかったんですね。

なお最初にいいますと、私自身はリーマン・ショック世代です。氷河期パイセンのあれこれは当時参考にして、今なにが起きていたのかを知りました。

目次

雇い止めとはなんだったのか

まず、この雇い止めは、みんな大嫌い竹中平蔵による派遣拡大、からのリーマン・ショックで話題になった派遣切りの反省から、派遣を長く続けたら正規雇用にするみたいなことを期待して、期間の上限を定めたものです。具体的には2013年の法改正で上限5年、2015年の法改正で上限3年とされました。

結果は、皆さんご存知雇い止めです。上限期間がくる直前で契約を終了するというものです。それはそうでしょう。ここでもし、直前にやめるのはダメといっても、では直前とはいつですかと前倒しになるだけです。実態を問う場合は司法に出なければならず、「弁護士と一緒に外形を完璧に整えた企業vs雇い止めされて明日の賃金が払われない個人」の長き消耗戦が始まります。これでは現実として機能しません。

結局、企業側に「人を減らしたい」という必要があり、しかし解雇するのが難しければ、これから入るひとを減らすしかない、調整弁にできる派遣・非正規を増やす、という帰結になるかと思います。まぁ結局、法律はカウントダウンのタイマーにしかならなかったわけですね。

雇い止めを防げた論のたられば

ここから「たられば」で、こうしていれば防げたのではないか説について考えてみます。

雇い止めを実態レベルで防ぐ仕組みがあればいいんだ論

まず雇い止めの実態が不可能になるような要件を出した場合どうなるか。たとえば高額な金銭的な補償や訴えられたら秒で敗北確定演出の法的枠組みを求める、とかですかね。これは経済的なインセンティブがなくなるのと同義なので、企業は結局回避策を求めるか、そもそも雇うのをやめたり、名ばかり事業主のような別の問題の温床となるかと思います(名ばかり事業主問題はもう起きてますね)

なので根本的な解決にはならないでしょうが、今よりは多少マシだったのでは?という程度の補償を課すことは可能だったかもしれません。しかしその額は存在するかもしれませんが、ここだと決めるのは実務上難しいでしょうし、本質的には「雇い止め価格の提示」以上になりません。

そもそも派遣の拡大がおかしいんだ論

そもそも雇い止めが社会問題になるような状況になるのがおかしい、非正規雇用の条件自体が厳しくて然るべきだ論も考えられます。これは一つ理屈だと思います。ただしその場合、企業は雇用自体を諦めるか、やはり名ばかり事業主に帰結することになるでしょう。つまり失業率の高止まりか、小規模経営体の増加です。市場全体は非効率で停滞すると思います。ただ間違えているとは言えない、とも思います。非正規のコストを上げろ系は全部これです。

失業率の高止まりも個人事業主爆増も、政治的には困るので選ばれなかった、ということでしょうかね。その結果が小泉改革。

正社員を解雇できればいいんだ論

あとは、そもそも正社員を解雇できればいいんだ論ですね。これは非常に抜本的な資本主義的な解決だと思います。資本主義的にはこれが正しい、じゃないでしょうか。

ただし、その必然として雇用は不安定化します。なので既に正社員の人、これから正社員になれると思っている人からは猛反対をくらいますので、政治的に難しかったということになりますでしょうか。ジョブ型にすればいいんだ論はこれの亜種だと思います。

ま、とどのつまり、実態として解雇が難しい、正社員で雇うことに恐怖がある、一方で市況は変わるので雇用の調整弁は必要、という条件が揃っている以上、形式的に何をどうしたところで、実態としての雇い止めに類することは起きるということですね。

どうにもならなかった?

雇い止めというか、氷河期世代の根本を辿ると、市況の変化による痛みを誰がどう引き受けるのか、にありました。ここで、氷河期世代の形成にはいくつかのキーとなる層があります。

まず、既得権益になるのは従来の正社員と、また正社員になった当事者、あるいはこれからなれると期待するものです。ここで、彼らが自分から痛みを引きうける直接のメリットはないので、ここは基本的に抵抗勢力になるのが自然と思います。

次に企業で、これは窓際族よりは若者のほうが欲しかったのではないかと思いますが、それが自社利益のためでは、重い解雇規制に逆らうだけの倫理を持ちませんので、難しかったのでしょう。そもそも構成員自体は正社員ですし。

次に政府ですが、これも正社員全員を敵に回す胆力は持ちえません。であれば、政治的に弱小である若者に痛みを押し付けるほうが政治的には楽です。

最後に当時の若者、つまり当事者ですが、これはまず力がありませんので、政治的な必然として氷河期にはなります。ただその後として、彼らは特に社会と戦うようなことはありませんでした。どちらかというと、当時流行していた自己責任の価値観を強く内面化し、自分にも他人にも、うまくいかないことについて当人の責としたのではないでしょうか

このようにしてみると、当事者でありもっとも不利益を被ったはずの若者がなんで唯々諾々と結果を受け入れたのか?となります。これは不思議なんですが、氷河期とZの狭間の世代で、他責にするなと言われ続けた最後の自己責任世代の私には、なんとなくわかるような気もします。

それが当時の規範であったという以上に、個人にとっても、社会のせいではなく自己責任だと考えたほうが楽だ、という面がありました。だって社会のせいだと、それはどうにもならないでしょう。でも自分のせいならなんとかなるかもしれない。まぁこれはおかしいんですけどね。リーマン・ブラザーズの倒産はどう考えても私のせいではありません。当時の強欲エリートのせいです。

まぁさすがに、氷河期世代の不遇が可視化されたからか、現在では自己責任ではなかった、社会の責任だった、という声が強くなっているように思います。ま、それはそうなんじゃないですか。氷河期世代爆誕の原因にはバブル崩壊や日本の社会制度がありますが、どう考えてもそれは氷河期世代の責任じゃないです。

自己責任論の本当の問題点はなにか

まぁ氷河期世代は自己責任ではない、は別にそのとおりなのでいいと思うんですけれど、SNSを見ていると、ちょっと危うい、とも思いました。というのも、社会の責任だから社会がなんとかすべきだ、となっている人が多いように見受けられるんですよね。これは、我々が強く内面化されてきた誤った自己責任論の完全な延長です。というか同じです

自己責任論の問題としてよく言われることは、自分の責任じゃないことまで自分のせいだと背負い込む、なんなら他人にまでその姿勢を求めてしまう点だと思います。でも本当の問題はそこじゃありません。

我々の内面化された奇妙な自己責任論の本当の問題は、自己責任であることと、その結果を引き受けなければならないのが自分であるかどうかは、現実として別だと認識しないことです。

責任の主体と結果を引き受けるものが同一であるというのは、倫理的な規範であって、なんならだったらいいのになぁという願望に過ぎないのであって、現実ではありません現実では、責任なんか一切ないのにひどい目にあうことのほうが多いものです。またその逆に、極めて重い責任があるはずなのに、一切まったくなんにも結果を引き受けない、というエラいということになっている人たちも、たくさんいるではないですか。え、これ実例あげないといけませんか?

自責も他責も現実と関係ない

私は自責とか他責とかいうのが嫌いです。責任の所在がどこにあろうと、現実自体は何も変わらないんだから、まず現実をどうにかするのが先だ、と身に沁みているのがあります。現実の対応のために、原因の推定をして、それが自責と他責の配分を決めることにはなるのですが、責任の配分は単に結果であって、自責だからいい、他責だからだめ、とはなりません

そもそも責任が誰にあろうが、一番痛いのはだいたい責任者じゃありません。現場の当事者です

だから誰が悪いだのなんだのは本当にくだらないと思いますし、世の中を何も良くしないと思います。それはせいぜい保険の補償と裁判の量刑を決めるためのものです。事後のケジメであって、現実に起きたことを戻しません

ですので、責任の配分について考えることも自分の人生にとっては必要かもしれませんが、現実を一切変えない、ということは、これは単に事実なので、認識する必要があると思います。雨が降った原因と責任の所在を考えるより、雨を凌ぐ手段を探すのが先です。

これは他人のせいで困っていても他人は助けにきませんということになるので、非常に救いがないんですが、現実なので仕方がないと思います。お前のせいだと正論を叫びながら死ぬのが、一番阿呆らしいじゃないですか…。

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