僕はちょくちょくミニマリズムについて考えてしまうのだが、多分僕自身思想的な影響を受けてきた、という自覚があるからだろう。それで以前持たない暮らしとはなんだったのかについても考えていた。

この記事では、持たない暮らしを「モノの最小化」と捉えた。そうして本質的なことに向き合うための取り組み、とした。そのうえで「自立から依存への逆転」から目的を達成できなくなり、またそもそも「必要性のグラデーション」は根本的問題で、人生とは複雑で最小化できるものではなかった、というようなことを書いている。
この考察記事で書いたことは今読んでも違和感はなくて、僕の反省がきちんと書かれているかなと思う。そのうえでまたミニマリズムというか、持たない暮らしについて考えていた。今でもなお、その本質というか概念にそう間違いがあったわけではないと思う。ただ共産主義は理念的に間違えていないと正当化することに意味がないように、現実的に実践できる運用と結びつかなければ無意味だ。理念と運用の乖離はどこで起きたのか。
考えていたとき、そもそも足し算はできていたか、と思った。持たない暮らしとは引き算の美学だが、引き算の前に足し算できていたのか。引き算は今あるものからコアを抽出する作業だが、そもそも今あるものの中に、本当にコアはあったのか?
これはかなり本質的に思えた。世の中には、足し算からしか出てこないものがあるからだ。具体的には、ほしくないが必要なものは、足し算からしか生まれない。
たとえば保険。今保険に入ってないのであれば、持たない暮らしの考えから保険に入ろうとは絶対にならない。だが保険はときに必要だ。ここでいう保険とは社保ではなく概念としての保険である。たとえば、スマートフォンに貼り付けるガラスも保険の一種と考えていいだろう。
今あるものは、本当にそういう「必要なもの」を考えて揃えていたものだったか。それは単に欲しいものの集積ではなかったか。ほしいとかほしくないとかではなく、必要だ、という考えは本当に貫かれていたか。
モノが溢れていると持たない暮らしを始める前に、溢れているモノはどうやって溢れたのか、そこに必要なものは全部あったのか、モノを捨てる前に、あるいはせめてそれと並行して、足し算が必要だったんだと、今にして思う。
必要なものが揃ってないのに削ってばかりいれば、そりゃ依存になってしまうのもむべなるかな。みんなだいすきマズローでいえば、生理的欲求、安全の欲求がある。ピラミッドの下層を削って、あるいは社会基盤に依存して、いったい何が自己実現だろう。
言い訳すると、そういう時代だったんだよ。社会と自分を接続して考えるのがトレンドだったのさ。社会基盤の安定を疑うなんて、僕は考えていなかった。だいたいみんなもそうだったと思うよ。消火器は空間の無駄だから間接照明を置いてデートスポットにしようとするのが2010年代だったように思う。そりゃあ、どこかでツケを払うことになるし(コロナ禍になって慌てて買い占めたり物流崩壊で尻も拭けなくなったり)、振り返ってみて虚しくもなるよな。
社会基盤は確かによくできている。だがそれは他人のつくったものであって、自分のものじゃない。自己実現と称してなにかを削ぎ落とす前に、まず自分の基盤をつくるのが先であったと、そういう反省がある。
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