最近世間を賑わせている国際情勢はもちろんアメリカによるベネズエラのマドゥロ大統領拘束があります。これは他国の大統領を武力により拘束したということで、既存の秩序である国際法に照らし合わせていろいろと疑義が生じている一方、しかしベネズエラの独裁体制がひどいもので、選挙の結果も無効化する有様でした。日本などはマドゥロを正当とは認めていなかった、という事情があります。
ベネズエラのめちゃくちゃぶりと国際社会の無力さ
その無茶苦茶ぶりと国民生活の貧困については、「ベネズエラとはどのような国なのか? – 橘玲 公式BLOG」の記事が詳しく参考になりました。国民は266万%のハイパーインフレに苦しみ、配給に依存せざるを得ない状況です。
人口の半分近くが受け取っているが、「愛国カード」と呼ばれる電子カードの登録が必要になる。最低限の食料を受け取るために、国民はマドゥロ政権を支持せざるを得なくなっている
読むと沈鬱な気分になりますが、その生々しい実態は「田中龍作ジャーナル | ベネズエラ あれから7年、やっとこさ独裁者追放」「田中龍作ジャーナル | ベネズエラ 労働者が残飯を漁る国」の記事により差し迫った描写があります。以下の言葉は、イデオロギーとは一線を画した怒りの表明ではないでしょうか。
反米親露のインテリたちよ。恐怖政治に怯える民衆に思いを致したことがあるか。社会主義国家でありながら、ゴミ箱を漁る労働者親子に思いを致したことがあるか。
このような状況ですから、ベネズエラの危機に対し国際社会が無力であった、という事実は非常に重たいものです。
私自身、実質武力による制圧について思うところはありますが、ベネズエラの窮状やノーベル平和賞受賞者も含めたベネズエラ国民の喜ぶ様を見れば、私には何も言う資格はないのだと思いました。いかに西側諸国の為政者や識者が手続きの非難をしたところで、空々しく感じます。
いじめと私刑
翻って日本、SNSではなんだか学生の暴行動画が拡散されています。それは大きな怒りを呼び、事態の大きさに教育委員会や学校も動かざるを得ない有様です。
これについて、SNSで拡散することが最善手になってしまっている、という嘆きが多くみられるのはまぁそうでしょう。法治国家としては当然、学校ないし警察といった機関に頼るのがあるべき姿です。しかしそれでは救われないから、現代の形を変えた力であるSNSに頼らざるを得ないという現実があります。
私はこれはベネズエラの問題と同根であると思われました。民主主義とはつまり手続きなのですが、その手続きが形骸化し、守るべきものが守られず、裁かれるべきものが跋扈している。それについて手続きが現実として無力なのです。これは民主主義というより、官僚主義というべきかもしれません。
ルールの裏に力あり
時代が変わっているのだと思います。人々が既存のルールを疑い始めました。ルールは本来人を守るものであるはずですが、今はルール自体を守るような構造になっています。
そもそもルールは、その背景に力があります。人間はプログラムではなく、ルールがあるから動くわけではありません。ルールを破ることのコストを考えて動きます。そのコストとして、当人の倫理観などは当然ありますが、社会から受けるであろう暴力というのは当然計算に入ります。逆に言えば、力がなければルールは無視される可能性が高くなります。実際、そうであるから独裁者が生まれます。
つまりルールとは力の円滑な経路とも考えられます。だからこそ、正論は時に暴力になります。正論とは正しい論ですが、正しい論の大元にある前提は別に絶対的な真理ではなく、暴力に裏付けされた理です。つまり、正論を通すことにはその暴力をちらつかせる側面が存在するのです。逆に言うと、力の裏付けのない正論は空を打ちます。
だから、正論なんだから通るのが当然だといわんばかりの人を見ると、私はその人が幸福な一生を歩んできたのだと思います。正論の背後にある力、自分を守っている力の存在を、意識せずにすむ人生を歩んできたのだなぁと、そう思います。
秩序の上書き
所詮世の中に絶対の真理などありません。結局はその時々のトレンドがあるだけです。ルールは毎回暴力という高いコストを払わなくて済む整備された道路に過ぎません。暴力のほうがコストが安いとなれば、そのルールは守られません。
というよりは、ルールが実体を守らなくなったので、ルールを通しているとコストばかりかかって解決しない、と思われたというほうが正確かもしれません。そうすると、ルールの前提そのものが疑われる事態になります。それはルールを破ることに正当性を与え、暴力のコストを下げます。
最終的に、力の時代に入ります。それはルールが無視される時代なのではなく、形骸化された秩序を上書きする時代なのだと思います。もちろん今までそうであったように、今回もまた、暴力によって。
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