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ゲームと一緒に攻略本を買う子供でした

「とりあえずやってみて」とか「まずは自分で考えて」が、今の若者に響かない理由。 | Books&Apps

これは面白い記事だ。

この記事を読んだ時、強烈な違和感と共感が一緒になって去来した。それは違う、いやそうだ、否定と肯定の感覚が同時に血を駆け巡った。

記事は世代論の一つで、「最近の若者」と「オトナ」を対比させたものだ。もうすぐ36になる僕は政治家にでもならない限り若者とは呼ばれなさそうだが、少なくとも20年以上前は若者と呼ばれて差し支えない年齢だった。というか子供だった。20年以上前が「最近」に入るのかはわからない。感覚的にはプレイステーションが出たのは10年前くらいの気がする。歳を取ると時間の感覚がおかしくなる。

ただ一つ覚えていることは、僕はゲームと一緒に攻略本を買っていた、ということだ。この態度はまさに、記事でいう正解を知りたい若者像と言ってよいのではなかろうか。

目次

それは共感

正解を知りたい。僕はこの気持ちをわかるつもりだし、また合理的だとも思う。だから僕は攻略本を買った。それは必然的だった。

別に僕も、最初から攻略本を見ながらゲームを進める子供だったわけではない。子供にとって攻略本は安いものではないので、そこに経済合理性がなければ買うはずがない。しかし、村のどこぞにいる爺さんに話しかけることがフラグであることに気づかず、フィールドをいったりきたりぐるぐるさせられた経験が、在りし日の僕に攻略本を買わせるようになった。

それに、当時の僕はインターネットでお気に入りのゲームを語ったり、時には二次創作という楽しみ方もしていて、それにはゲームを深く理解する必要があったから、できるだけ短い時間でその域に辿り着きたいという理由もあった。意味もなくフィールドをぐるぐる回るより、インターネットの個人サイト(そう、当時はそれがあった)を回るほうが有意義だった。ゲームの楽しみ方は多様である。

それは違和感

学校で教科書を読み、ゲームで攻略本を読んでいた僕も、いよいよ学校を出て働き始めた。そして痛感したことは、月並みなことに、正解は教科書の中にしかないということだった。陳腐だろ。でもマジでそうなんだ。

これは多分、僕の仕事の内容も環境も、非常に特殊だったことが関係しているとは思う。20代の僕はほとんど住み込みのような状態で、社長が借りたど田舎3LDKのアパートの一室を間借りする形で、仕事の後は社長と共に帰宅してなお仕事の話をしていた。よくわからん工場によくわからん仕事で打ち込まれたり、海を渡ってしばらく国土から離れ極めて特殊な環境下のミッションに参加したり(というかそのためにその謎会社に入った)。

そこにあるのはただひたすら現実で、信じられるのは、あるいは信じるべきなのは、教科書に書いてある理想的記述ではなく、今この瞬間ここにあるものだけだと腹からわかるのに3年、あるいは4年かかった。逆に言うと、愚鈍な僕でも4年で感じられるほどにはハードな経験をさせてもらった。それは多分、勘のいい人なら……あるいはそういう人生を歩まざるを得ない人であったならば、10代でも理解できることだ。一方で、死ぬまで理解できない、する必要のなかった人生も、多数あると思われる。

現実に正解などない

今となっては、無邪気にゲームを楽しんでいた頃が懐かしい。そこには確かに「正解」と言って差し支えないものがあった。少なくとも、村の爺さんに話しかけるのは正解だ。村の爺さんに話しかけずにいいことなど一つもない。

だが一方で、すべての宝箱の位置やボスのステータスを予め知った状態でダンジョンに臨むことが正解かは、やや疑義がある。まぁ、得られるはずの強力なアイテムの存在を知らずにゲームを進行させるのはなんだか損の気がする。だがボスのステータスを既に把握して、弱点属性の装備で身を固めてバトルするのはどうだろう、なにか間違っている気がする。

ここのところはなんとも微妙だ。実際、知らないがためにボス戦手前のセーブポイントで詰みかけた経験を持つものは多いだろう。出られない系ダンジョンのセーブポイントは罠である。

結局どうすべきなのか。それは人による。つまり、攻略本には確かに正解があるのだが、その正解をどれくらい現実に適用すべきなのかは、ゲームに何を求めるかで異なる

これは仕事でも同じようなことが言えて、教科書の中の正解は現実でも随所で適用できるが、それは現実における正解を意味しない。難しいのは、その本質的に正解ではないものを、なんとか現実の中でうまく機能させることだ。プログラミングされた世界ではない現実において、それは無理ゲーといっていいくらいの難易度だ。あらゆる仕事は、そこにいる人間の試行錯誤の賜物である。

そうやってうまく機能したものは、ひょっとすると「正解」に見えるのかもしれない。もしギャップがあるのだとすれば、そこじゃなかろうか。

そうやって、「正解」にたどり着く過程で試行錯誤するのが、オトナたちにとっての「努力」。

冒頭記事ではこのように表現されている。だが上述したように、そもそも現実に「正解」はない。だから「正解」には永遠にたどり着けない。「オトナ」が本当に伝えたい本質は「正解」に見える何かにはなくて、「試行錯誤」のほうにある。

もちろん、知識は重要だ。自然を学ぶのに物理学の教科書のを読まないのは阿呆だ。僕は今でも、というか多分今のほうが学生時代より勉強しているし本も読む。

ただ学生時代は問題を解くために本を読んでいたが、今は何が問題なのか考えるために本を読んでいることが多い。うまくいけば、解決の糸口まで見つかる。つまりは、試行錯誤の種である。

考えることに意味があるので

批判的になってしまったけれど、僕は冒頭の記事を掛け値なしにいい記事だと思っている。まさに、こうして考えさせてくれる記事だからだ。考えて、自分なりの意見をまとめる、その過程にこそ意味がある。なので、冒頭の記事は僕の考えとは違うけれど、僕はいい記事だと思うわけだ。いや、違うと書いたが、実はけっこう同じことを言っている気もしている。

それにまぁ、そんなに急ぐ必要はないなんて、齢36になろうとしている今だから思うことかな、って。村の爺さんに話しかけなかったことさえも、今こうして懐かしく思い出して記事にできているのだから、無駄ではなかったのかもしれないけれど、学生服に身を包んでいたあの日の自分にとって、ただぐるぐると彷徨うことに意味を見出すには、人生の時間密度があまりに濃すぎた。

歳を取るとだんだん時間の感覚も変わってくるから(プレステ4が出たのって一昨年くらいで合ってる?)、ものの見方もまた変わるんじゃないかな。ただどうなったとしても、考えられる限りは、いろんなこと、考えていきたいね。

それもできなくなったら、僕自身がリアルフィールドをアテもなくぐるぐる回る爺さんになるのだろうか。寂しい。その時には、無駄なことと言わず誰か話しかけてほしいなぁ。もしかしたら、それがフラグかもしれないぜ。何のフラグかはしらんけど。

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