能力の高さに無自覚な人の作るものは、複雑になりがち

能力の高い人というのはいる。普通ならば中々理解できない複雑な概念をさらっと理解して、自分のものにしてしまえるような人だ。そんな人が技術者になれば、複雑な要求・要件を考えられるし、それを実現するシステム設計もできる。

複雑な設計

で、そうして出来上がったものを見ると、その人はさらっと使えて、非常に多くの機能を実現していることがわかるのだが、では、と手渡されて使おうとすると、いかにも複雑でとっつきづらい。端的にいって、わからない。

ということで、もっとシンプルなものにしよう、と設計を見直すのだが、その段になって設計の複雑さに驚かされる。よくこんなもの作ったなと思うと同時に、これをメンテするのかと恐々とする。

ドキュメントはあまり残っていない。何しろ能力が高いので、そんなもの無くても作れてしまう。本当に全部覚えているし、わかっているのだ。が、それでは後から来た者は困る。それに、誰だっていつかは忘れてしまうのだ。

なので、まず今の設計をドキュメントに書き起こす。そうすると、設計者自身「けっこう複雑だな」と驚いたりする。それに機能が多い。不思議な機能もある。聞けば、「こういうケースを考えて」という。なるほど、よく考えている。だがそのケースはほとんどないだろうし、あっても致命的なことにはならないだろう。複雑性と引き換えにしてまで作るべきものだったのかは、一考の余地がある。

そうして作り直すと、シンプルでわかりやすいものになって、それでいながらコアとなる機能は実現できており、設計者も「最初からこうしておけばよかったな」なんて思ったりする。

それは自分自身である

さて、ここまでならば、なるほどそういう人はいるなぁと思われるかもしれない。が、ここで認めなくてはいけないことは、そういう人とはまさにあなたであり、僕であるということだ。

能力とは相対的なものなので、あらゆる分野で地球上で最強のバカでない限り(それはそれですごそう)、何かについては誰かよりも能力が高いということになる。

たとえば自分が平均だとすると、平均以下の人から見た時、自分は能力が高い人であり、自分が作るシステムは、平均以下の人から見た時、上述した問題が生じている。たとえ自分が平均以下だとしても、そのさらに下の人から見た時は……。

そして、何事にも向き不向きというものがある。すべての事物に対して同じような能力が発揮できることはない。したがって、「能力」という漠然とした尺度のランキングは、対象と当人の適性よって大きく上下する。

つまり、「やけに複雑なものを作ってしまう」というのは、自身の能力に無頓着でいる限り、必ず起きる問題なのである。一人でやるならそれでもいいかもしれないが、一人でできることには限界がある。まして仕事となれば、一人でできることなどほとんどない。

能力を評価すること

自分の能力を適正に評価することは難しい。能力が低いと認めることはもちろんつらいことだ。能力が高いと評価するのも、なんだか傲っているようできまりが悪い。

自分よりすごい人がたくさんいることを知っている。どの分野にも神のような人はいて、特に知悉していればいるほどにそのすごさがわかるものだから、自分ごとき能力が高いなどと考えるのはむしろ恥ずかしく思える。

が、それと同じように、自分よりできない人もまた、たくさんいるのだ。そして、そういう人のほうが実は多いのである。

そりゃそうだ。なんだって、やれば成長する。やっていれば、だいたい能力とは平均以上になる。ましてそれが好きなこと、興味・関心のあることならばなおさらだ。

上を見ることは大事だ。今の自分が一番だと尊大になっていいことなど何もない。だが下を気にかけることも、それと同じくらい大事である。そしてそうすると、不思議なことに、本質的でよりよいものができると思われるのだ。

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